第五福竜丸

今が好き♪

1998.5.1

今から44年前の昭和29年3月1日、太平洋・ビキニ環礁で漁労中、アメリカの行った水爆実験に遭遇した静岡県焼津港のマグロはえ縄漁船です。高濃度の放射性降下物、「死の灰」を浴びて無線長の久保山愛吉さんが死亡した事件は日本だけでなく世界中に衝撃を与えました。被爆後、昭和31年7月、放射能の危険がなくなった同船は三重県伊勢市で改造されます。東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」に生まれ変わって、その後10年程千葉県館山港を母港として活躍しました。そして昭和42年、廃船となり、江東区の夢の島埋め立て地に放棄されてしまいます。
このゴミの中で朽ちるにまかせた船体に目を向けさせたのは朝日新聞「声」欄への一青年の投書でした。「沈めてよいのか第五福竜丸」と題した投書は多くの共感を呼び、保存への声に押されて、東京都は当時造成中だった夢の島公園に展示館を建造、昭和51年に開館させます。
全長28m、幅5.9m、高さ15m、140トンの木造遠洋漁船はこうして安住の地に納まったのです。漁具、付属品や被爆資料も多数展示されているのですが、なによりも、間近かに見る木造船の質・量感には圧倒されます。
一方、エンジンは別の運命をたどります。廃船時に抜き取られて三重県尾鷲市のこれも木造船、198トンの貨物船に搭載されます。以前の焼玉エンジンより高性能だったのですが、程なく、昭和43年7月、熊野灘で濃霧のため座礁。

積み荷のドラム缶700本と共に沈没し海底に放置されてしまいます。ところがこのエンジンが平成8年12月、28年ぶりに引き揚げられたのです。和歌山県海南市のミニコミ紙編集長が主宰する「核廃絶グループ」の働きかけによるものでした。元々第五福竜丸は焼津港へ転売される前は、神奈川県三崎港所属の別名のカツオ漁船で、昭和22年、和歌山県古座町の造船所で地元紀伊半島産の松・杉・ひのき・けやき材を使用して建造されました。和歌山県にはゆかりがあったのです。6気筒ディーゼル、250馬力ながら、全長5.6m、幅1.1m、高さ2.5m、重量12.5トンにおよぶ堂々たる船舶エンジンです。

このエンジンが和歌山県内・焼津市・三浦市三崎で展示キャラバンをした後、この3月に夢の島公園に引き渡されました。現在は倉庫に保管中で見学できませんが、公園事務所の話しでは、展示スペースや展示方法を早急に決めて今年の秋には公開する見通しだとのことです。31年ぶりに元の船体に戻されたわけです。

我が国には広島・長崎以外にも忘れてはならない「核の証人」があったのです。