ある日系家族の思いで

中野 章

1998.3.26

私も日系社会の情報に接するたびにある記憶が鮮烈にに蘇ります。

それは今から三十有余年前のことです。
 当時私はシカゴ南部にあったある日系二世の営むボーディングハウスに数ヶ月滞在していました。
 ボーディングハウスー下宿屋といってもご主人は修理主体のあまり繁盛しない時計屋さんで、もっぱら奥さん(おばさん)とおばさんの母のおばーちゃんが家計の足しにと切り盛りしていました。
 二十五前後の長女を頭に娘4人、息子二人の大家族に加え、カルフォニア生まれ、ハワイ生まれの日系二世、三世の学生5~6人に私のような日本からの短期滞在者数人が加わった大所帯でした。
 この家族はもともとカルフォニア・サクラメント付近で農業を営んでいたのですが大戦中はご他分にもれず強制収容所で過ごしたそうです。
 戦後は新天地を求めてシカゴに移住してきたのです。
 そんなボーディングハウスでのある日、多分日曜日だった?ダイニングルームでのんびりとテレビを見ていました。丁度その時、皇太子殿下(現天皇陛下)の御成婚のパレードが映しだされました。それを見ていた学生気分のまだ抜けない私はふとあることを口走りました。それは戦前ならば不敬罪(もはや死語と化してワープロでもいっぺんに変換できない)で留置所に2~3日はぶち込まれるたぐいの言葉でした。

まさにその時でした。後頭部にガツンと衝撃を受け、眼から火が出、目先が真っ暗になりました。一瞬何が起こったのか分かりません。
 後ろを振り向くと、なんとオバーちゃんがフライパンを持って、涙を出しながら私を睨んでるではありませんか。そう、オバーちゃんにこっぴどく叩かれたのです。

「オバーちゃん、何をするんね」と私。
 「アンディ(私は便宜上アンディと呼ばれていました)、お前はジャパン生まれのジャパンボーイじゃないか?なんちゅう耐えがたいことをいうのか」とオバーちゃん。
 私はハットしました。戦後の日本人に希薄になった皇室尊崇の気持ちをこのオバーちゃんは牢固として持っているのだと気付きました。

私は心から、理屈抜きに謝りました。ともあれ明治人の純粋な気持ちの前に下手な理屈は通らないと思いました。
 機嫌を少し直してくれたオバーちゃんは言いました。
 「アンディ、もう一度同じことを言ったら、ランチを作ってあげんけーね!」(作ってあげないからね!)これには参りました。私にとってはフライパンの打撃以上です。

そう、毎日、毎日のサンドイッチのランチにうんざりし、折角のサンドイッチを食べずに捨てていたのが、いつしかバレて、そんな私のために特におにぎりランチを作ってくれるようになっていたのです。

言葉からお分かりのように、オバーちゃんは山口県大島町の出身です。
 おばさんは同じ大島でで小学校教育を受けた帰米二世。おじさんの両親は広島出身。私は同じく山口県萩市生まれなので同郷ということもあって特に可愛がってくれていたのです。

そんなわけでアメリカを含めて日系移民社会には深い関心があり、移民社会の情報に接するたびにフライパン打撃を鮮烈に思い出すのです。