大洞の弁天さま

角田 稔

2005.12.30

12月3日、幕末駆けた美貌の間者 村山たか女 との見出しを添えて、朝日新聞朝刊に彦根城の素晴らしい写真が載った。佐和山から望んだという其の写真を見ながら子供の頃を思い出した。

石田三成の居城のあった佐和山は中山道沿いの我が家の真西にあり、頂上が少し平たく、その昔城があったことを僅かに偲ばせていた。京都に向かう新幹線が米原を過ぎた頃車中からほんの暫く望見できる山容は昔と少しも変らない。この山麓にへばりつくように、西山という小村落があり、数軒の農家があった。我が家から1キロほどの距離にあったが、小学校に入るとよく遊びに行った友人の家は中でも際立って立派な造りであった。縁側下に幾つか蟻地獄が並んでいた。家の傍の幅2,3メートルの川には大小の魚が泳ぎ、友人と2人で釣り糸をたれて餌と遊ぶ魚を眺めた。直ぐに飽きて網で小魚を掬ったりした。友人は鯰の取り方、タニシの食べ方、初冬になっても蛙の泳ぐ湧水池など珍しい事物を沢山に知っていた。大きな黒い貝、烏貝?の取れる小川では、真珠の入っているものもあると教えてくれた。少し遠のしをして、其の頃は干拓もされずにあった琵琶湖の内湖まで歩き、菱の実を取り、恐る恐る中身を味わったこともあった。友人の家の裏から佐和山に登った。小道を辿りながら落ち武者の幽霊話を聞かされて、鬱蒼と茂る木陰から今にも何者かが出てくるのではないかと慄きながら、城跡らしきものの何も無いきつい坂を上って、やっと辿り着いた頂上は意外と狭い平地であった。ここにあの彦根城と同じ天守閣が聳えていたのだと思えないくらいであった。東側には、霊山の山並みの谷間を縫う中山道、我が家も小学校もよく見えた。西側には、琵琶湖を背景に、彦根城の美しい姿と城下町があった。遠くには比叡山、比良山、湖西、竹生島、伊吹山、長浜、内湖が望め、東海道線と北陸線の分岐点、米原駅付近は汽車の煙突から吐き出される煙で霞んで見えた。この場所に天守閣があれば、中山道、北陸道を移動する人馬や湖上の船の行き来を十分に監視出来たに違いない。三成は何を見、何を考えていたのであろうか。

山の西側中腹には、井伊家4代目の殿様が城の鬼門に当たるこの地に建立したと伝えられる弁天堂がある。今は近くまで自動車で上れる。 10 段ほどの急な石段を上がり山門をくぐると、その奥に幅数間の祠堂がある。堂に登ると 20 畳足らずの板の間があリ、正面格子の奥に、大洞(おおほら)の弁天さまとして親しまれ崇められている女神のお姿が光の中に浮かんで見える。不思議なことにお顔が低いところにある。奥の 2 、 3 段の階段を降りると面格子と対面するが、階段に腰を下ろして拝すると、お顔が丁度真正面にあって迫ってくる。包み込むような微笑とも見える表情の中に強い意志を秘めた迫力に圧倒され、像の形、衣装の彩色を拝観するのも忘れるほどである。ふくよかで白い豊かな頬、大きな黒い瞳、弓形切れ長の瞼、やや太目のくっきりとした黒い眉、ふっくりとした赤い唇、すっきりと通った鼻筋、上品な小鼻、ふと、女優の矢田亜希子?を思わせるようなお顔は現代でも見かける美女の典型である。弁才天はもともとインド最古の聖典にある河川の神、水の女神、豊穣の女神であり、後に言葉の女神となり、学問、芸術の守護神とされた。弁財天とも書かれて財福の神でもあり、七福神の絵には琵琶を持つ姿として描かれ、音楽、弁才の神として信仰されている。竹生島、松島、江ノ島の弁財天が有名であるように、水をめぐらした島に祀られていることが多い。琵琶湖を望むとはいえ山の中腹に祀られているのは珍しいことかもしれない。学問、芸術の守護神としてなのか、財福の神としてなのか、いずれにしても、豊かさを願うために城の鬼門に当たる場所を選ばれたのではなかろうか。

朝日朝刊彦根城の写真に添えて、村山たか女の生涯が紹介されていた。「花の生涯」(舟橋聖一)にも登場し、井伊直弼を助けて、其の師長野主膳と共に美貌の女間者として活躍、直弼の死後捕らえられて京都三条橋に生身のまま晒されたが、尼僧に助けられ、直弼の遺品を守りながら、尼寺でひっそりと余生を送ったという。彼女は生涯において最も深く直弼を愛したのであろう。その数奇な一生は日経夕刊小説の「奸婦にあらず」(諸田玲子)に連載中でもある。彦根や多賀神社周辺など生まれ故郷の慣れ親しんだ場所や名前が沢山に出て来るので身近な物語のように思える。主人公の たか女は弁財天の申し子と言われ、才色兼備の女傑であったそうである。大洞の弁天さまのお顔を拝しながら、情感豊か、繊細でありながら意志の強かったであろう女間者 たか女の姿を思い浮かべた。

祠堂を出ると、弁天さまの目線の先になるのであろうか、山門を絵の枠に見立てるように彦根城がその中心に白く輝いていた。新聞写真とは違った情趣があった。夜間であれば、ライトアップされて浮き出た城の姿はまさに夢幻的であろう。