近江長浜の曳山まつり

角田 稔

2006.7.20

郷里へ帰ったついでに琵琶湖畔の小都市長浜を訪ねた4月15日は重要無形民族文化財長浜曳山まつりの本日(ほんび)であった。3大山車まつりの一つといわれるだけあって見物客も多く、市内が賑わっていた。特に今年は長浜市の新市制を祝うために、13基の曳山が御旅所に勢揃いしていた。23年振りとのことであった。
 長浜の歴史は豊臣秀吉から始まる。岐阜県谷汲山華厳寺へ通じる谷汲街道と北国街道が交わる要衝に羽柴筑前守(豊臣)秀吉が居を定め、天正2年(1574)近隣の衆を動員して城を築いたその城下町、長浜は楽市、楽座、町屋敷3百石年貢米免除などの民衆活動奨励策によって活気のある町となった。当時長浜は49町10組に分けられ、組を代表する町年寄役10人衆が決められて秀吉と緊密な関係を作った。曳山まつりは、長子誕生を祝って秀吉から授かった砂金を元に、町衆たちが12基の曳山を造り、秀吉が復旧した八幡宮のお祭りに猿楽座を招いて町中を引き回し、お祝い事にしたことから始まっている。秀吉の人心収攬の妙が発揮されたわけである。この伝統が受け継がれ、江戸幕府時代となった後も屋敷年貢免除が続けられた結果商工業が大いに発達し、長浜御坊大通寺の門前町として栄えた。子ども歌舞伎が始まったのは江戸中期という。
 秀吉所縁の社寺も多く、秀吉を祀った豊国神社、大阪城落城の際持ち出された秀吉木像を祀った知善院もある。石田三成や日本庭園で有名な小堀遠州の生地でもある。関ケ原合戦後廃城となっていた長浜城跡には昭和58年コンクリート造りの3層5階の天守閣が再興され、長浜城歴史博物館となり、今年は長浜御坊と共に北近江一豊・千代博覧会会場となっている。テレビで大河ドラマ 功名が辻 が放映され、山内一豊・千代と長浜が深い関係にあることを初めて知った人も多いことと思う。私も同郷の友人も一豊が長浜城第3代城主であったことを知らなかった。
 長浜駅から混雑している大手町通りを避けてわき道を歩き八幡宮へ近づくと、特徴のあるお囃子の音が聞こえてきた。この しゃぎり と呼ばれる囃しを聞くと土地の人達はじっとしていられなくなるとのことであった。確かに郷愁を誘う何かがある響きである。境内は人だかりで一杯であった。

其の中心に1基の曳山が据えられ、子ども歌舞伎が始まっていた。祭りはっぴを着た老人が 何処からですかと声をかけたので、東京から祭り見物にと答えると、それはそれはと相好を崩して、手にしていた冊子を気前よく同勢5人分くれた。長浜曳山まつり 猩々丸 平成18年4月 と表書きに、裏面には 舟町組 とあり、祭りの沿革、準備から神事の進行の説明、曳山13基の写真入紹介、など盛りだくさんの内容のB5版75ページの冊子であった。目の前にある曳山は猩々丸、安永3年(1774)に造られた9.2mもある御座舟型の曳山であった。演じられている狂言の外題は 神霊矢口渡 頓兵衛住家の場 であった。傾城うてな、娘お舟に扮する7歳と11歳の少年の女声がはっとするほど澄み、綺麗であった。子どもの頃祖父母に連れられてまつり見物をした折、曳山の上で、自分と同年輩の子どもたちが演じる歌舞伎の所作事に目を見張ったことを思い出した。曳山の飾り緞帳が大変貴重なものだと聞いた記憶もある。
 町に出て移動中の曳山鳳凰山(祝町組)を観た。数人の裃羽織姿の若衆が先導し、余り広くはない街路をゆっくりと曳山が移動してくる。この曳山鳳凰山の側面に垂れた見送り幕は16世紀ベルギー製の1枚のタペストリを2枚に分けた右半分であり、重要文化財に指定されている。左半分は京都祇園祭の鶏鉾に用いられているという。この山の演ずる狂言は鬼一法限三略巻 菊畑であった。今年は高砂山(宮町組)-狂言 源平魁躑躅扇屋熊谷-、寿山(大手町組)-狂言 身替座禅-の2基を含めて4基の曳山が市内を巡行し、八幡宮での狂言奉納のほかに、市内5箇所(札の辻、米嘉、一八屋、金屋、鮒熊)で子ども歌舞伎を披露していた。1基当たり1回40分の興行を3回行うことになっている。5歳から12歳までの少年俳優は何れも元気のよい子どもたち、そのほかに囃し方の少年少女が活動している。少子化の影響もあって人数を揃えるのが次第に難しくなっていると世話役が嘆いていた。4月8日のお釈迦様誕生を祝う花祭りでも稚児行列への参加者を集めるのに苦労しているとさるお寺の住職が話していたことを思い出した。伝統文化を維持継承してゆくのには人々の様々な努力、組織力、意気込みが必要であったことであろう。秀吉の施政の妙に発するとするのは考え過ぎであろうか。
これだけの大掛かりな曳山まつりを、秀吉時代から、江戸時代を経て400年以上もの間持続させてきた小都市長浜の底力をあらためて見せ付けられた思いがした。