出雲路の旅

角田 稔

2006.7.25

羽田空港の上空に雷雲が立ち込め、出発の1時間ほど前から空港の建物が振動するほどの大音響を伴いながらの落雷もあった。夕立だったらしく間もなく静まり、30分ほどの遅れで満席の機は離陸。雲の多い日で下界は殆ど望む事が出来ず、幾らか揺れたが、出雲空港につくころにはすっかりと晴れ、田植えの始まったらしい水田の美しい区画、色調の違う様々な色合いの新緑に彩られた山々を眺めながら宍道湖畔の滑走路に無事着陸。耳鼻科の医者の忠告にも関わらず、耳痛もひどくはなく、宍道湖を横に見ながら着地する気分は上乗であった。こぎれいな代表的な地方空港で、着地している飛行機は1機であった。

出雲の温泉や風物を楽しむらしい団体客の一団は早々とバスに乗り換えて消えた。私ども夫婦は出迎えてくれた妹の車で一路奥出雲加茂の里へ向かった。四囲を山で囲まれたほぼ4.5km四方の四角い盆地状の緩い起伏のある地形の町である。その中央を神話でよく知られた斐伊川の支流赤川が東西に流れている。この4月、近隣の町村が合併し今は雲南市加茂と称しているが、この辺りには古代の人々の活躍の跡、それらしい地名などが数多く残されている。加茂という地名からして出雲では特別な意味を持っているように思える。古代出雲には加茂族或いは鴨族と称する強力な部族が住んでいたらしいのである。加茂の辺りが古代民族の活躍と深いかかわりのある土地であると考えると楽しい。市議である義弟の案内で遺跡を巡った。

赤川南岸神原にある神原神社古墳は、一辺30mの方墳で、出雲地方最古の前期古墳として知られていた。昭和47年(1972)赤川改修の際発掘調査され、竪穴式石室で割り竹式木棺が納められ、副葬品として、景初三年銘のある三角縁神獣鏡、そのほか武器、農工具などの鉄製品多数が埋葬されていることが判った。現在は神社境内に石室が移設保存されている。神社背後の丘陵地帯には神原正面遺跡群があり、尾根上には弥生後期時代の小古墳群、斐伊中山古墳群松本古墳群が発見された。被葬者は現在の神原集落のあたりに住んでいたと推定されている。赤川北岸、神原神社古墳の北西役1.8kmにある岩倉には磐座、すなわち神の降臨する岩、神の宿る岩の意があり、鎮守神矢櫃神社跡にはご神体として信仰の対象とされている磐座と思わせる大岩があリ、また、谷入口の丘陵には金鶏伝承を伝える岩もある

加茂岩倉遺跡は赤川支流猪尾川を遡り、途中でその支流岩倉川に沿って1.7km入った岩倉本郷の狭い谷の最奥部にある。矢櫃神社跡、大岩から余り遠くないところである。平成8年10月(1996年)、農道を広げる作業中に岩谷の中腹から39基の銅鐸が発見されたので、一躍注目を浴びるようになった。歴史探訪家の人々の希望が強く、目立った整備がなされていないので、ほぼ発見当時のままに保存されているとのことであった。また、この遺跡から北西に3.4km離れた神庭荒神谷遺跡では昭和59年(1984年)358本の銅剣が、翌60年(1985年)にはこの場所から7m離れた所で銅鐸6個と銅矛16本がそれぞれ同じ埋納坑に纏めて納められているのが発見された。このように大量の銅剣、銅鐸、銅矛が纏めて発見されたことはこれまでになかった。この遺跡周辺はすっかりと整備され、以前に訪ねたときとは趣を異にしていた。銅剣の出土した荒神谷遺跡、古代蓮の咲いていた大沼、大池、古代の復元家屋や農耕地、緩やかな傾斜の周辺を囲む森、散策の小路と整った史跡公園になっていた。中心に、瀟洒な2階建て荒神谷博物館があり、国宝に指定された出土銅器などが展示され、セミナー室、説明用のビデオも用意され、出雲の昔を偲ぶにはもってこいであった。神話の国出雲には考古学専門家にとっても、未解決の問題が多々あるらしい。素人が勝手に空想を馳せるのも自由である。斐伊中山古墳群、松本古墳群、神原正面遺跡群、神原神社古墳跡、加茂岩倉遺跡、神庭荒神谷遺跡と辿ると、その線上には斐伊川下流の遺跡群がある。紀元前1世紀から紀元1世紀の間続いたと考えられている銅器の時代、恐らくは神事に用いられたこれだけ多数の銅器を保有した強力な部族が、これらを纏めて銅器の関わる神事をも葬り去るように埋蔵するに到った激しい変化、劇的な新世紀への移行に考えをめぐらせると、神話の物語が新しい姿で甦ってくるような気がする。

参考資料、加茂岩倉遺跡発掘調査概要。荒神谷博物館資料。加茂岩倉銅鐸の謎。