シンジラレナーイ

角田 稔

2006.12.2

今年のプロ野球は日ハムの活躍振りが目立った。まさかリーグ優勝までは行くまいと思っていたのに、後半になって調子に乗ったかのように首位決定戦にも勝って優勝してしまった。シンジラレナーイというヒルマン監督の一言には歓びの実感がこもっているように思えた。しかし、勢いを駆って、セパ両リーグ優勝チームの競り合うプロ野球日本一決定戦では強打堅守の呼び声の高かった中日に圧勝した。日ハム選手の生き生きとした若々しい活躍振りが目に焼きついて、勝利は実力の差との感が深かった。そのせいか、再び発せられた監督の一、二、三、シンジラレナーイの絶叫は、どうだやったろう、と言う風に響いた。続いて行われたアジア国際野球大会では各国プロ球団代表が一位を競うので、ある意味ではその国のプロ球団の実力を計ることになる。随分と緊張した事と思うが、どの試合も順調に勝ち進んで優勝戦に臨み、選手監督一丸となって、期待通り優勝した。若い選手の活躍、用兵の妙が際立った試合であった。矢張り監督のシンジラレナーイの挨拶で幕が閉じた。
回を重ねるごとに、実力あり、選手層の厚みあり、名采配ありとチームの特徴を見せ付けられただけに、監督の1,2,3、シンジラレナーイは少しずつニュアンスの違った響きで聞こえた。我々はそれ程頻繁にはシンジラレナイを使わないと思うのだけれど、ヒルマン監督は何処でこの言葉を覚えたのであろうか。或いはこの言葉はきっと信じられないほどに外国人に印象深く記憶される言葉なのであろうか。この言葉をよく用いる外国人を描写した文章のあったことを思い出した。
村上春樹の旅行記はどれも面白い。「遠い太鼓」に、ローマから自動車で3時間ほどの距離にある孤立した辺鄙な山村メータ村を訪れた話がある。1987年4月代表作「ノルウェイの森」の原稿を出版社に渡してしまって、ゆったりとした気分であったとある。

外務省に勤めて東京に何年か滞在した事のあるウビさんはメータ村出身である。ウビさんのシンジラレナイを用いた感想の一部を紹介してみよう。(村人たちは第2次大戦のことを先週の話みたいに話すんだ。村の青年が2人ドイツ軍に捕らえられて帰ってこなかったことをずっとみんなで真剣な顔して話しているんだ、シンジラレナイ)、(村ではお母さんの作るパスタだったので、16歳まで丸いスパゲテイーのあるのを知らなかった、シンジラレナイ)、(僕は小さい頃、あそこに見える山が世界の果てだと思っていた。あの山の向こうの事を誰も教えてくれなかったので、メータ村が世界の中心だったんだ、シンジラレナイ)、(長兄が東京に行った時に、3日間ビールとサンドウィッチで過ごした、シンジラレナイ)などなど。ウビさんのように話しの最後に付け加え、話の内容についての自分の感慨を激発させるような使い方はなるほどとよく分かり、シンジラレナイも便利に使われているなと思う。イタリア語ではこのような表現法はないのであろうか。
それにしても、ウビさんはどんな風にしてこの言葉を覚えたのであろうか。話し言葉の中で、そんなことは信じられん、あの話は信じられん、信じられない話だなどということはあるが、シンジラレナイで話の最後を一括りしてしまうようなことは男性には余りなかった気がする。ウビさんは盛り場などにもよく出入りしたらしいので、全くの想像であるが、他人の言ったことをシンジラレナイの一言で片付けてしまう女性から、本来は重い意味合いの言葉でありながら、軽妙で便利な表現として覚えたのかもしれない。ウビさんの話しの中で、ローマから余り遠くないところに、孤立して独特の風俗習慣を残している山峡の小村が現存する事こそ信じられない事のように心に残った。
 この頃はいろいろな事件が起こる。どれも信じられないような事ばかりである。驚いてばかりいるわけには行かない、歯がゆさを覚える。ヒルマン監督のシンジラレナーイの歓びの声を聞きながら思ったことである。