見るもの

角田 稔

2009.4.6

目で見るものほど確かな事は無い、見て確かめなくちゃ、などと、よく言われるが、如何せん、目に入る情報量は極めて多いのである。ましてやその記憶たるや曖昧な事が多い。 久方ぶりに会った友人が洒落た服装をしていたよと話したら、妻から、服は何色?ネクタイは?ワイシャツは?などと、立て続けに聞かれてすっかり慌ててしまった。覚えていないのである。服装には平常無頓着でも、何時も友人を見下ろしてしまうことになる背の高い私は頭に絶えず目が行くので、彼の頭髪が豊かで黒々としていて到底同じ年とは見えなかったと言ったほうがまだ無難だった。我が禿頭と見比べて、豊かな頭髪を見るたびにコンプレックスを感じてしまうことを付け加えれば笑い話になる。後の祭りである。年取ったのだから少しはお洒落をしてくださいとしつこいほどに言われていたことを忘れていたのだ。あれこれと妻に説明しながら、何故に友人が洒落て見えたのかと思い出そうとしても、何時もよりさっぱりとして小奇麗に見えた姿しか思い出せないのである。最初の瞬間に洒落ていると思い込んだらしい。第一印象とはこのようなものであろうか。せめてネクタイくらいは注意して見ておけばと思うのだが、その色すら覚えがない。困ったものである。私の得意でもなく、また関心の薄い服装関係だと割り切ってしまえばそれまでだが、この点、妻の注意力と記憶力には驚かされることが多い。とは申せ、この種の記憶力は脳神経系の構造に性差のあるという研究もある由であり、女性一般の能力らしいので余り悩む必要は無いのかもしれないが、最近読んだ平岩弓枝女史の

 

私の履歴書(日経新聞朝刊)によると、女史の場合でも、作家修行を始めた頃、師の長谷川伸氏から、今日会った人のことを事細かく聞かれて困ったそうである その後相手の人に失礼にならないよう注意しながら出来るだけ丁寧に人を観るようになったという。作家になるほどの人には日常の鋭い観察と思考が要求されるのであろう。凡人にとっては容易な事ではない。その気になって良く観ないと駄目なのである。百聞は一見に如かずと言うのも何を見るかを決めておくから意味がある。小説を読むのが好きなまま後期老齢者と位置づけられ、物忘れのひどくなってきた今頃になってこの事に気が付くとは全くとんまな話ではある。もう少し注意深く小説を読んで、作者の意図するところを読み取らなくてはと今更のように思う。観照という言葉のあったことを思い出した。どうしても硬直しがちな頭脳を柔軟にし、思考力を豊かにするためにも、細かく観察しそれを記憶する力をつけなくてはなるまい。
 花鳥風月に意をとめながら俳句を詠じることは見ることに役立つ筈であるが、俳句を始めて10年以上にもなるのに、どの程度効果があったか自信がない。記憶に残った視覚情報を基に言葉を紡ぎだして句を詠む作業に含まれる省略、重点化、抽象化などが影響しているのかもしれない。蕪村の絵を観ながら、視覚に直接かかわりのある絵の意味を考えるこの頃である。