春夏秋寒 蝉しぐれ

角田 稔

2005.11.3

86歳になる叔母に電話したところ、昔の思い出話になった。小学生の頃、夏休みの1ヶ月は醒ヶ井にある母の里で暮らし、その折に、当時、女学校に通っていた一番若い叔母は私の面倒を一手に引き受けてくれた。其の叔母の最も強く印象に残っているのは、蝉取りに熱中していた私の姿のようである。電話する度に其の話が出てくる。何故に蝉取りに熱中したか、子供の頃とて深いわけがあろう筈は無いが、醒ヶ井には樹林が多く、蝉が多くいたのが珍しかったせいであろう。鳴き声を頼りに蝉の姿を求めて歩くのが嬉しかったのかもしれない。広い庭にはいろいろの形をした庭木、川向こうには鬱蒼と繁る杉林があった。僅か1ヶ月の間にも、ミンミン蝉から油蝉へと鳴き声の中心が移り、ヒグラシの忙しげな甲高い声が混じり、ツクツクボウシが里近くで一声二声鳴いては木々の間を跳びわたるようになると、未だ暑い日が続いているのに、里人は、これで夏の暑さが過ぎるのだ、秋が来たのだと、言った。時の移りと共に蝉の種類の変るのが、春夏秋寒と季節に対応しているのが面白い。春夏秋冬といってしまうと一年間ずっと通してとなるが、流石に冬は冬篭りの季節であり、秋蝉と同じ頃でありながら、どんじりを勤めて鳴く蝉を寒蝉と名づけている。春蝉はマツゼミ、夏蝉はミンミンゼミ、秋蝉はアブラゼミ、寒蝉はツクツクボウシ、またはヒグラシのことである。ツクツクボウシはツクツクボウシと、ヒグラシはカナカナ(カンカン)と、鳴き声も、また姿も違うが寒蝉とまとめられている。この時期、何時でも、何処へ行っても蝉の鳴き声が絶え間なく降りかかって飽きる事がなかった。蝉しぐれとはよく言ったものと思う。

藤沢周平 蝉しぐれ は封建社会の幼馴染の結ばれようも無い切ない恋の物語である。奥羽小藩の下級武士の息子文四郎と隣家の娘ふくは幼い頃から恋をしていた。家老の陰謀に巻き込まれて、文四郎の父は切腹させられ、母と共に忍苦の生活を送るが、めげることなく道場にかよって腕を磨き、免許皆伝となる。

一方、ふくは年頃になり、文四郎に深い思いを抱きながら、奥女中として召され、殿様に寵愛されて男子を得るが、家老一派に憎まれて母子ともども暗殺されそうになる。最も切迫したこの危難から文四郎が2人の友人と協力してふく母子を救出し、結局、父を切腹に追いやった家老一派を失脚させる。時が経ち、殿様が亡くなり、ふくは尼となって世を捨てる前に文四郎と最後の別れをしたいと願う。二人は昔と変らないお互いの気持ちを確かめ合い、ふくは尼寺に向かい、文四郎は任地に帰る。階層の明確な封建社会において、主人公達を取り巻く人々の織り成す人間模様には心打たれるものがある。

この時代小説を映画化した 蝉しぐれ を観た。主演の男優は市川染五郎、女優は木村佳乃であった。激情を押さえ精進する文四郎を演じる染五郎の抑制のきいた演技が印象的で美しかった。ふく親子を危難から救出し、元凶の家老屋敷に独りで乗り込み、「何人死んだかご存知か。人が一人死ぬとはどういうことかお分かりか」と、今まで秘めていた思いを、父親に切腹を命じた家老に向かって怒りを爆発させるシーンの迫力はすざましいものであった。映画は文四郎の少年時代、青年時代、壮年時代へと、むしろ淡々と美しい画面を随所にちりばめながら展開するが、とりわけ、文四郎と2人の友人の深い交友の場面が素晴らしい。文四郎とふくがお互いに今も変らぬ気持ちを確かめ合う切ない場面も美しく叙情的に描かれ、駕籠で去り行くふくも、見送る文四郎もそれぞれ満ち足りた表情だったのが印象的であった。舟に乗って帰る文四郎を送るかのように聞こえたかんかんという鋭く高い響きはヒグラシの鳴き声であったろうか。絵のように綺麗な画面であった。別に、内野聖陽、水野久美を主演とする同じ題名のテレビドラマもあったので、監督、演出の違いも含めて、両者を比較観賞できた。

最近は殆ど聞く事のないツクツクボウシの声を9月初めマンション玄関前で聞いた。私の姿を認めたのか、一声だけで、さっとどこかに消えた。