丹沢

とまりぎ

2007.5.31

折り目がほとんどちぎれた地図を今でも持っている。昭和38年9月版の昭文社「丹沢山塊」である。つなぎあわせて地図を眺めていると、丹沢山行の数々が思い出され懐かしさでいっぱいとなる。時間があまりにも経ってしまっているので、どのような山行だったかきれぎれにしか思い出せない。

昭和39年の3月、メンバー3人でお彼岸の休みを利用した夜行日帰りの丹沢縦走を計画した。古地図に時間のメモ書きがあるが、その時のものか確信はない。
小田急線 渋沢駅0:15→(バス)→大倉0:35→吉沢平2:15→花立ノ頭3:35
→塔ノ岳4:35 同6:30→丹沢山7:30→蛭ヶ岳10:30→檜洞丸<ひのきぼら>(時間メモなし)石棚山→箒沢→中川温泉1:00(バス)→小田急線 新松田駅
大倉尾根(バカ尾根、表尾根)を登り塔ノ岳1490.9で仮眠したと思われる。塔ノ岳を出たあたりから予想もしない雪が残っておりびっくりした。ふみ跡をたどって丹沢山1567.1を過ぎ丹沢最高峰の蛭ヶ岳1672.7に向かった。蛭ヶ岳を越えたあたりから雪が降り出し、檜洞丸1601.2(平成3年の同社の地図では1551)への急な登りを足元だけ見つめて懸命に登る。やっと山頂の青ヶ岳山荘についたが雪はひどく、とうとう泊まるはめになってしまった。家での心配などあまり気にしなかったようだ。幸い翌日は天気もよく無事下山できた。

それから後の夏、今度は4人でヤビツ峠から三ノ塔山の尾根筋を塔ヶ岳に登った。塔ノ岳から鍋割沢出会、熊木沢出会といったん下り、ユーシン沢出会まで行ってキャンプをした。翌日は金山谷乗越<かなやまのっこし>という蛭ヶ岳と檜洞丸との尾根筋の鞍部へ出た。ここから檜洞丸への登りはきつく、いつもヒーヒーしたことが忘れられない。

檜洞丸をすぎ熊笹の峰、さらに大笄<おおこうげ>をすぎてから夕立が降り出した。土砂降りのなか遮二無二に駆け下り犬越路<いぬこえじ>の峠を神ノ川側へくだる。幸い下ってすぐトタン板を屋根状にしただけの物置を見つけて駆け込むことができた。結局ここで一晩を過ごした。このとき持参したテントは会社の先輩から借りた布製で雨を吸ってさぞ重かったことと思う。翌朝、天日干ししてからふたたび犬越路を越えて中川上流の白石沢出会へ下る。途中の河原で朝飯にした。米が石油に浸かってしまっていたがよく洗い、摘んできた野草とおかゆにしたがかなり石油臭かっことが忘れられない。当時は川の水量も豊富で大きな岩の下の深みで泳いだり、よじ登って岩松を採ったりして遊んだものだ。中川沿いに箒沢、中川温泉へと歩いた。

昭和42年5月の連休に裏丹沢で3泊4日のテント生活を楽しんだ。神ノ川の日陰沢出会付近である。平成3年の地図にはこの名は無く日陰沢橋とある。神ノ川ヒュッテがあったがそれもない。南武線八王子駅に4人が集まり橋本まで行く。橋本11:25三ヶ木12:12東野13:05神ノ川ヒュッテ16:05と名刺裏に書いたメモが残っていた。橋本から東野までは三ヶ木乗り換えのバスで行き、そこから歩いたのだがダンプがひっきりなしに行き来していた。かなり歩いたところで運転手から声がかかり、荷台に乗せてもらって嬉しかったが、どこまで乗ったかは憶えていない。すき焼きのとき、春菊だと言ってよもぎを投げ込んだり、輪ゴムをしたままの糸蒟蒻が出てきたりして大笑いした。何をして過ごしていたのか記憶がないが、飯盒炊飯の様子と、楽しげな各人のドアップの顔写真がアルバムに貼ってある。持物表の中にはトランプ、ハーモニカ、歌集との記録がある。テント生活が終わり、来た時と同じルートで帰った。

手持ちの平成3年の地図には、中川と世附川、そして鉄砲水で一時話題となった玄倉川の合流地点に丹沢湖(三保ダム)がある。昭和38年9月版には丹沢湖はない。